第一部
第5話
「指定保管所の暗闇と、私設の科捜研」
月曜日の午後8時15分。
愛知県豊田市の外れにある、県警の指定車両保管所。街灯もまばらな資材置き場のような敷地の裏手に、本多葵はエンジンを切った覆面バイクを滑り込ませた。
ヘルメットを脱ぎ、ライダースジャケットの襟を立てる。
「本多先輩、マジで勘弁してくださいよ。本庁の人間が勝手に所轄の証拠品に触ったなんてバレたら、情報流した僕まで始末書どころじゃ済まないんですからね!』
数時間前、交通課の後輩である結城を脅しつけて聞き出した泣き言が耳に蘇る。葵は「今度、チャーシューメン奢ってやるから」とだけ言い残し、一方的に電話を切っていた。
結城の情報通り、定時を過ぎた保管所に人影はなかった。入り口のプレハブ小屋の鍵は閉まり、管理人の老父はすでに帰宅している。
葵は周囲の暗闇に目を凝らしながら、大人の背丈ほどある金網フェンスに足をかけ、音もなく敷地内へと侵入した。乾ききっていない水たまりと、錆びた鉄の匂いが鼻を突く。
何十台もの事故車が並ぶ中、一番奥の区画に、ブルーシートを被せられた無惨な欧州製高級セダンを見つけるのに時間はかからなかった。
葵は周囲を警戒しながらシートをめくり、ひしゃげた運転席のドアを力任せにこじ開けた。
スマホを取り出し、数時間前にあの「サポート窓口」の男から提示された裏チャットのIPアドレスを開く。
【Guest_01(本多)】
『着いた。車の中だ』
数秒後、画面の向こうで待機していた男から返信が来た。
【オペレーター(鳴海)】
『お疲れ様です。……着いたって、まさか所轄の警察署の保管庫ですか? 捜査令状は?』
【Guest_01(本多)】
『豊田のレッカー置き場だ。令状なんかあるわけないだろ。管理人が帰った隙に入った』
【オペレーター(鳴海)】
『……は? 不法侵入じゃないですか。私はそんな犯罪の片棒を担ぐ気はありませんよ』
【Guest_01(本多)】
『今さら何を言ってる。あんたの首の皮は私が握ってるんだ、共犯者がガタガタ言うな。バレなきゃ捜査だ。あんたは私の「私設の科捜研」なんだから、いいから次どうすればいいか教えろ』
名駅の空調の効いたオフィスで、この男が今どんな顔をして頭を抱えているか。想像するだけで葵は少しだけ口角を上げた。
【オペレーター(鳴海)】
『……はぁ。わかりました。運転席の足元か、ダッシュボードの裏側を見てください。OBDポートと呼ばれる、整備用のコネクタが刺さる端子があるはずです』
『そこに、本来の車の配線に割り込む形で、後付けの「小さな箱」が繋がっていませんか? もし遠隔操作で「0xCF」のコマンドを流し込んだなら、外部の電波を受信するための物理的な中継機が必ず仕掛けられているはずです』
葵はスマホのライトを口にくわえ、運転席の足元のカバーを強引に引っ剥がした。
無数のカラフルな配線が剥き出しになる。機械の知識はないが、刑事としての「違和感を見つける目」は誰よりも肥えていた。
「……あったぞ」
整然と束ねられた純正のケーブルの奥。そこだけが明らかに異質だった。
黒いビニールテープでぐるぐる巻きにされた、タバコの箱より一回り大きい程度の無骨な黒いケース。それが、車の中枢神経へと不正なバイパスを繋いでいた。
葵はスマホでその不気味な黒い箱の写真を何枚も撮り、チャットへ送信した。
【Guest_01(本多)】
『画像送った。これか?』
送信から十数秒。チャットの向こうの沈黙が、男の驚愕を物語っていた。
【オペレーター(鳴海)】
『……ビンゴです。間違いない、市販の通信モジュールを改造した手製のハッキングデバイスだ』
『これで完全に繋がりました。犯人はウチの会社のクラウドOS(自動アップデート機能)を隠れ蓑にして通信を送り込み、その「黒い箱」を経由して、この車のハンドルとブレーキを直接ジャックしたんです』
暗闇の車内で、葵は小さく息を吐いた。
自損事故なんかじゃない。やはりこれは、最新のテクノロジーと物理的な仕掛けを組み合わせた、極めて計画的な殺人だ。
【Guest_01(本多)】
『だが、マヌケな犯人だな。こんな物理的な証拠を現場に残したままにするなんて』
葵が軽い気持ちで打ち込んだテキストに対し、数十秒の重い沈黙の後、鳴海から背筋が凍るような返信が届いた。
【オペレーター(鳴海)】
『……違います。犯人はマヌケなんかじゃない。信じられないほど狡猾だ』
『犯人は、自分で証拠を消す必要がなかったんです。この「黒い箱」は、警察がただの交通事故として処理し、数日後に車ごとスクラップ工場でプレスされるのを待っていれば勝手に消滅する。そしてサーバー側に残った通信ログも……今朝、ウチの会社が保身のために当てた「隠蔽パッチ」によって、すでに本番環境から綺麗に消え去っています』
葵は息を呑んだ。
警察の事勿れ主義と、巨大企業の隠蔽体質。犯人はその両方の「組織の病理」を完全に計算し、組織の人間たち自らの手で証拠を消させる仕組み(エコシステム)を作り上げていたのだ。
【オペレーター(鳴海)】
『警察のルールを破ってレッカー置き場に侵入したあなたと、会社のルールを破ってローカルにバックアップを取った私。この2つの「イレギュラー」が重ならなければ、間違いなくこの事件は、明日にはチリ一つ残らない「完全犯罪」になっていました』
相手の顔は見えないが、その文字からは確かな戦慄が伝わってきた。自分たちは今、とんでもなく巨大で緻密な悪意の淵を覗き込んでいる。
【オペレーター(鳴海)】
『デバイスの表面に、MACアドレスかシリアル番号らしき印字はありませんか? それが分かれば、私の方から通信の「発信元」を逆探知できるかもしれません』
それを読んだ葵は、黒い箱に顔を近づけた。
そして、薄汚れたテープの隙間から見え隠れする文字列を読み上げ、自らの目を疑った。
「……は? なんだこれ」
そこに印字されていたのは、MACアドレスでもメーカーのロゴでもなかった。
アルファベットではなく、手書きのマジックで、たった2文字の「古い漢字」が記されていたのだ。