第一部

第3話

「所轄の無能と、現場の違和感」

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「だから、ただの自損事故だって言ってるでしょう。県警本部(本店)のサイバー犯罪対策課が、こんな所轄の交通マターにわざわざ首を突っ込んでこなくて結構ですよ」

 月曜日の午後。名古屋市緑区にある警察署の裏手、フェンスに囲まれた車両保管所。  ひしゃげた鉄と、乾ききっていないエンジンオイルの生臭い匂いが漂う中、所轄のベテラン刑事は心底面倒くさそうに手帳を閉じた。  彼の背後には、土曜日の昼過ぎに桶狭間の路地でコンクリート壁に激突した、欧州製の高級セダンがブルーシートを半分被った状態で安置されている。フロント部分は原型を留めないほど無惨に潰れ、運転席のエアバッグは赤黒く染まっていた。

 「自損事故で片付けるには、不自然な点が多すぎます」  本多葵(ほんだ・あおい)は、ライダースジャケットのポケットに手を突っ込んだまま、鋭い視線でスクラップ同然の車体を睨みつけた。 「土曜日の昼はゲリラ豪雨でした。あんな視界の悪い中、地元の人間でもないトクヤマ精密の役員が、わざわざ車一台通るのがやっとの桶狭間の袋小路に入り込む理由がありません。それに――」 「パニックを起こしたんですよ」  ベテラン刑事は吐き捨てるように言った。本庁の若手に対する、明らかな苛立ちが混じっている。 「雨で道に迷って焦り、ブレーキとアクセルを踏み間違えた。高齢のドライバーにはよくあることです。現に、現場にスリップ痕(ブレーキ痕)は一つも残っていなかった」 「それがおかしいと言ってるんです!」  本多は声を荒げた。 「この車は、トクヤマ精密の部品を積んだ最新の自動運転プロトタイプですよ? たとえ運転手がアクセルをベタ踏みしようと、壁が迫っていればシステムが強制的に自動ブレーキをかけるはずです。それが作動した痕跡すらないなんて、ハードウェアの異常か、システムへの外部干渉を疑うべきです。科捜研(科学捜査研究所)に回して、車載コンピューターの通信ログを解析してください」

 「映画の観すぎじゃないですかね、本多巡査部長」  ベテラン刑事は呆れたように鼻で笑った。 「事件性のないただの交通事故に、科捜研の予算と順番待ちの枠なんか使えるわけがないでしょう。**それに上からの指示でね、この車はさっさと豊田の県警・指定車両保管所へ移送して処理しろと急かされてるんですよ。**だいたい、あんたたちサイバー課の仕事は、クーラーの効いた部屋でパソコンのキーボードをカタカタ叩いてることじゃないんですか? 勝手に管轄を越えて現場をうろつかれては、こっちも迷惑なんですよ」

 それだけ言うと、ベテラン刑事は足早に署の庁舎へと戻っていった。  本多は小さく舌打ちをした。警察組織特有の、縄張り意識と事勿れ主義の分厚い壁。いや、それだけではない。死亡事故の証拠車両をこんなに早く遠方のスクラップ場へ追いやろうとする上層部の判断は、いくらなんでも異常だ。  このままでは、ただの「前方不注意による死亡事故」として処理され、今日の夕方には車は完全に隠滅されてしまう。

 本多はライダースジャケットの内ポケットからスマートフォンを取り出し、画像フォルダを開いた。  画面に映し出されているのは、事故直後に現場へ駆けつけた交通課の後輩に無理を言って撮らせた、ダッシュボードの計器パネルの写真だ。  砕け散ったガラスの奥で、ひび割れた有機ELディスプレイが完全に沈黙する直前、そこには見慣れないエラーコードが一行だけ表示されていた。

 『0xCF (Collision Forced) - Auth: Remote_Override』

 ITやサイバー犯罪の専門知識など皆無だが、刑事としての勘が、これは単なる車の故障ではないと強烈に告げていた。 「科捜研が動かないなら、作った奴らに直接吐かせるしかないな」  本多はスマホの画面を切り替え、警察のデータベースからこの車両システムの保守を担当している名古屋のIT企業、「ナゴヤ・システム・ソリューション」の緊急連絡先を割り出した