第一部

第2話

「月曜朝9時の憂鬱と、1行のバグ」

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「いやあ、土曜にアプリでピザ頼んだんですけど、最悪でしたよ。配達員のGPSが完全に狂ってたらしくて」

 月曜日の朝九時。名古屋駅に直結するオフィスビルの二十八階。  出社するなり、隣の席の後輩がコンビニのコーヒーを片手に愚痴をこぼしてきた。 「緑区の自宅から頼んだんですけどね。アプリの地図で見たら、配達員のアイコンがあり得ない速度でワープしたり、全然違う袋小路に突っ込んだりしてて。結局、冷めきったピザが届いたの二時間後ですよ」 「スマホの熱暴走か、通信キャリアの障害だろ」

 鳴海弦(なるみ・げん)は、デュアルモニターから視線を外さずに適当に相槌を打った。  愛用している静電容量無接点方式のキーボードを叩く指は止まらない。スコスコという静かで独特な打鍵音だけが、彼のパーソナルスペースを満たしている。画面上では分割されたターミナルウィンドウが幾つも走り、漆黒の背景のテキストエディタにカラフルなシンタックスハイライトの文字が次々と刻まれていく。  週末の間に溜まった顧客からの問い合わせメールと、どうでもいい社内報の未読通知を、自作のスクリプトを回して機械的に処理していく。鳴海にとって、この名駅のオフィスにある自席から一歩も動かずに、平穏無事に定時を迎えることだけが人生の最優先事項だった。

 「鳴海、ちょっと手止めてくれ」  背後から、ひどく急いだ様子の課長が声をかけてきた。額には妙な汗が浮いている。嫌な予感しかしない。 「岡崎のトクヤマ精密からのクレームだ。彼らがノブナガ側と共同運用してるクラウド基盤で、週末に数秒間の通信瞬断があったらしい。今すぐ送った緊急パッチを本番サーバーに当ててくれ」 「……今すぐ、ですか? 検証環境でのテストは」 「ノブナガのシステム部から直接降りてきた指示だ。とにかく今すぐ上書きしろ。いいから急げ!」

 有無を言わさぬ口調でまくしたてられ、鳴海は小さく舌打ちをした。  月曜の朝イチに、検証もしていないパッチを稼働中の本番環境に当てろなど、正気の沙汰ではない。もしそのパッチに不具合があってサーバーが完全にダウンした場合、間違いなく「作業ミスをしたお前の責任だ」と詰め腹を切らされる。

 鳴海は手元のキーボードを強く叩き、セキュア通信でトクヤマ精密のサーバーに潜り込んだ。送られてきたパッチのソースコードをエディタでサッと流し読みする。 「(……なんだこの無駄に冗長なコードは)」  鳴海は眉をひそめた。洗練されたモダンなWeb系の書き方ではない。まるで、工場の機械を動かすための順次制御プログラムを、そのまま無理やりクラウドの言語に直訳したような、古臭く泥臭い「手癖」が滲み出ている。  だが、今はコードの美しさを評価している場合ではない。

 鳴海はパッチを当てる前に、ターミナルに素早くコマンドを打ち込んだ。  もしシステムが壊れた時、すぐにパッチ適用前の状態に「切り戻し」できるようにするための命綱。エンジニアとしての強烈な防衛本能(保身)だった。  対象ディレクトリのアプリケーション本体と、そこに紐づく『/var/log/』配下の直近のアクセスログ、およびエラーログ。それらを丸ごと圧縮し、自席のローカルPCへと退避(ダウンロード)させる。

 バックアップの完了を見届けてから、鳴海はパッチを実行した。  ターミナルに再起動のシーケンスが流れ、数秒後、何事もなかったかのようにシステムは正常なステータスを返してきた。 「終わりました。正常稼働しています」 「そうか、助かった」  課長は心底安堵したように息を吐き、足早に去っていった。

 「さて、と……」  鳴海が冷めたコーヒーに口をつけ、ふとサイドモニターのニュースサイトに目をやった時だった。  トップニュースの小さな見出しが、彼の視線を釘付けにした。

 『トクヤマ精密・松平専務、交通事故で死亡。緑区・桶狭間付近の路地にて』

 「……桶狭間?」  先ほどの後輩のピザ配達の雑談が脳裏をかすめる。GPSが狂い、袋小路に迷い込んだという緑区のエリア。  鳴海は嫌な汗が背中を伝うのを感じながら、先ほど自分のローカルPCに退避させたばかりの「パッチ適用前のエラーログ」を展開し、事故が起きた時刻 -土曜日の午後一時のタイムスタンプを検索した。

 そこには、1行だけ、異質なログが残されていた。 『0xCF (Collision Forced) - Auth: Remote_Override』

 遠隔操作による、衝突強制。  それは明らかなサイバー攻撃の痕跡だった。そして鳴海は、背筋が凍るような事実に気がついた。  今、自分が課長に言われて当てたあの緊急パッチ。あれは不具合の修正などではない。サーバーが車のハッキングの「踏み台」にされたというこの通信痕跡(ログ)を、本番環境から完全に消し去るための、巨大な証拠隠滅プログラムだったのだ。

 パッチが当たった今、本番サーバーからはすべての証拠が消え失せている。  世界で唯一、暗殺の証拠となるログを持っているのは、保身のためにそれをバックアップしてしまった鳴海のPCだけだった。