第一部
第1話
「自動運転の棺桶(桶狭間)」
松平は、自らの手でステアリングを握ることを好んだ。 土曜の昼過ぎ。激しい雨に煙る国道23号線を名古屋方面へ向けて北上する車内には、分厚い防音ガラスに弾かれる雨音と、タイヤがアスファルトを擦る微かなロードノイズしか響かない。 彼がドライブしているのは、トクヤマ精密が次世代のモビリティプラットフォームとして開発に一枚噛んだ、欧州製の最新型高級セダンだった。アクセルも、ブレーキも、ステアリングも、すべてが「バイ・ワイヤ(電子制御)」化されている。物理的なワイヤーやシャフトによる連結はなく、松平の操作はすべてセンサーで電気信号に変換され、車載コンピューターが最適な挙動を計算してモーターやブレーキを作動させる。 それはまるで、巨大なスマートフォンを運転しているような感覚だった。
松平はレーンキープ・アシストと追従型クルーズコントロールをオンにし、シートに深く背中を預けた。 トクヤマ精密は生まれ変わる。いや、生まれ変わらなければならないのだ。 かつて三河のモノづくりを牽引し、精密部品のトップランナーとして君臨したトクヤマだが、いまやソフトウェアの波に完全に乗り遅れていた。油にまみれ、図面と睨み合うような古い職人たちのやり方は、もう通用しない。時代はハードウェアからソフトウェア・ディファインド・ビークル(SDV)へと完全に移行している。
老害どもが固執していた旧態依然とした下請け構造を切り捨て、ITの巨人である『グローバル・ノブナガ』の傘下に入る。彼が何年にもわたって冷酷に、そして水面下で進めてきたこの巨大な買収スキームは、月曜の午前十時、ついに完成するはずだった。 「古い歯車は、新しいコードに置き換えられる運命にあるのだよ」 誰もいない車内で独り言ちて、松平は薄く笑った。リストラで会社を追われた古い技術者たちの恨み言など、彼にとってはノイズ以下の価値しかなかった。
——その時だった。
微かな、しかし確かな横Gの違和感に、松平は顔を上げた。 車が勝手に左ウィンカーを出し、予定外のインターチェンジで本線を降りたのだ。 「……?」 松平の自宅である名古屋市内のタワーマンションへは、まだ本線を直進するのが最短ルートのはずだ。窓の外の景色が、遠くに見え始めていた都市のビル群から逸れ、薄暗く古い町並みへと変わっていく。名古屋市緑区。この先は入り組んだ古い住宅街と、起伏の激しい細い路地が続くエリアだ。
「おい、ナビの誤作動か?」 松平は舌打ちをし、ステアリングを右に切って強引に元の車線に戻ろうとした。 しかし、腕に奇妙な感触が走った。ステアリングが、回らない。 いや、正確には「物理的なハンドルの輪」は回っているのに、タイヤが全く連動していないのだ。ステアリング・バイ・ワイヤの制御システムが、松平の「右へ曲がれ」という入力信号を完全に無視(ドロップ)していた。
車は濡れた路面を蹴り立て、明らかに制限速度の標識を無視してスピードを上げていた。時速六十キロ、七十キロ。こんな狭隘な一般道で出す速度ではない。
「冗談じゃないぞ! 止まれ!」 這い寄るような恐怖が、松平の背筋を駆け上がった。彼は右足をペダルに乗せ、床が抜けるほどの力でブレーキを踏み込んだ。 スカッ、と嫌な感触が足裏に伝わった。 ブレーキペダルは物理的に奥まで踏み込めるのに、キャリパーがローターを挟み込むあの強烈な減速Gが全く来ない。ブレーキ・バイ・ワイヤがハッキングされ、システムが制動を拒否しているのだ。
車は狂ったように細い路地を縫って走る。両脇には古いブロック塀や民家が迫り、街灯の光が車内をストロボのように激しく照らし出す。ヘッドライトが捉える景色は、次々と右へ左へと暴力的に切り替わっていく。 ここは桶狭間。 かつて驕り高き大軍が狭い谷間に誘い込まれ、逃げ場を失って壊滅した、歴史的な死の袋小路だ。
「開けろ!! 誰か!!」 松平はパニックに陥り、ドアハンドルを何度も引いた。だが、電子ロックが内側から噛み合っている。物理的な鍵穴のない最新のドアは、ソフトウェアが許可を出さなければただの鉄の壁だ。 ダッシュボードの巨大な有機ELディスプレイには、『最適ルートを走行中』という無機質な文字が表示され続けている。
そして、ヘッドライトの先——路地の突き当たりに、苔むした巨大なコンクリートの擁壁がふいに浮かび上がった。
ブレーキランプは点灯しない。 モーターが限界を超えた甲高い悲鳴を上げ、車体はさらに最後の一絞りの加速を見せた。暗闇の奥で、切り捨てられた無数の「古い歯車たち」の怨念が、一斉に手招きしているように松平には見えた。 ステアリングを握りしめたまま、彼は悟った。 自分が信奉し、すべてを委ねた「最新のソフトウェア」によって、自分は殺されるのだと。
「やめ——っ!!」
松平の絶叫は、ひしゃげる金属と砕け散る強化ガラスの凄まじい轟音に、完全に呑み込まれた。