第一部
第7話
「見えない標識と、巨大ITの影」
暗闇に沈む豊田の指定車両保管所。 本多葵は、ひしゃげた運転席の中でスマートフォンの画面を見つめながら、一つの強烈な疑問にぶち当たっていた。
【Guest_01(本多)】 『待て、鳴海。一つおかしいぞ。この黒い箱で「ブレーキを無効化して加速させる」コマンドを送ったのは分かった。だが、どうやってこの車を、あんな入り組んだ桶狭間の袋小路まで「誘導」したんだ?』 『いくら土砂降りでも、松平専務もバカじゃない。自分の家へ帰るルートから勝手に外れて、見知らぬ路地に入り込めば気づくはずだ。ハンドルもラジコンみたいに遠隔操作したのか?』
数十秒後。名駅のオフィスにいるバックエンドエンジニアから、冷静なテキストが返ってきた。
【オペレーター(鳴海)】 『いいえ。クラウド経由でハンドルを直接ラジコンのように操縦するのは不可能です。コンマ数秒の「通信の遅延」が発生するだけで、車はすぐに壁に激突してしまう。犯人が使ったのは、もっと狡猾で、確実な方法です』 『犯人は、あの土砂降りの雨の中で、車のシステムに対して「見えない道路標識」を立てたんです』
【Guest_01(本多)】 『見えない標識?』
【オペレーター(鳴海)】 『GPSの偽装(スプーフィング)です』
鳴海の解説は、ITに疎い本多にも恐ろしいほどすんなりと頭に入ってきた。
【オペレーター(鳴海)】 『夜道で、道案内の看板を「←行き止まり」の方角へこっそりすり替えておくようなものです。犯人はグローバル・ノブナガの公式サーバーを踏み台にして、この車のナビゲーションシステムに「偽の現在地(GPS座標)」を送り込みました』 『車は騙されて、「自分は正しい幹線道路を走っている」と錯覚したままハンドルを切り、桶狭間の狭い路地へと誘い込まれた。……そしてあの日のゲリラ豪雨が、運転手である松平専務の視界も、車載カメラの視覚も完全に奪っていた』
【Guest_01(本多)】 『……それで完全に袋小路に入り込んだタイミングを見計らって、ブレーキを殺し、エラーコード「0xCF」で急加速させたのか』
葵は背筋が粟立つのを感じた。 天候、地形、そしてシステムの盲点。すべてが完璧に計算された「死のピタゴラスイッチ」だ。
【Guest_01(本多)】 『悪魔みたいな手口だな。で、その「ノブナガのサーバー」を踏み台にした犯人は特定できるのか? 名古屋の巨大IT企業が、会社ぐるみでこの殺人を仕組んだってことか?』
その問いに対する返信は、数分間途絶えた。 やがて送られてきたテキストには、明らかにこれまでとは違う、強烈な「恐怖と拒絶」が混じっていた。
【オペレーター(鳴海)】 『……これ以上は、無理です』
【Guest_01(本多)】 『あ? どういう意味だ』
【オペレーター(鳴海)】 『私はしがない保守担当の平社員なんですよ。グローバル・ノブナガはウチの親会社であり、絶対に逆らえない相手です。これ以上深追いして、ノブナガの深層サーバーのログを漁ろうとすれば、間違いなく向こうのセキュリティ監視網に検知されます。そうなれば、私は懲戒解雇どころか、不正アクセスの濡れ衣を着せられて社会的に抹殺される』
名古屋駅の高層ビルで、鳴海が震える指でキーボードを叩いている姿が目に浮かぶようだった。 彼の言う通りだ。これ以上、デジタルの世界から「巨大企業の闇」に正面から切り込むのは、あまりにも分が悪い。
【Guest_01(本多)】 『わかった。なら、あんたはそこから動かなくていい。安全な防空壕の中で、拾い集めたログ(弾)の解析だけ進めておけ』
【オペレーター(鳴海)】 『……本多刑事?』
葵はスマートフォンのカメラをビデオモードに切り替え、「廃棄」と書かれた無骨なデバイスの基板、配線の繋がり、そして印字されたMACアドレスを全方位から鮮明に録画した。 証拠品を勝手に持ち出せば、自分も懲戒免職だ。葵は撮影を終えると、デバイスを再び黒いビニールテープで包み直し、ダッシュボードの裏側の見えない位置へと慎重に押し込んだ。
【Guest_01(本多)】 『ノブナガがどう絡んでいるにせよ、この黒い箱を作って、わざわざ油性マジックで「廃棄」なんて泥臭い文字を書き込んだ実行犯は、スマートなITエリートなんかじゃない。機械の油と恨みにまみれた、古い「モノづくり」の人間だ』 『デジタルの足跡が途絶えたなら、ここからはアナログの出番だ。三河の地を這いずり回って、この基板を作った「亡霊」の正体を私が引きずり出してやる』
画面の向こうで、鳴海が小さく息を吐く気配がした。
【オペレーター(鳴海)】 『……了解しました。あなたが見つけてきた物理的な証拠と、私の手元にあるコードの「手癖」。この二つを照合できれば、犯人を特定できるかもしれません。……気をつけて』
【Guest_01(本多)】 『誰にモノを言ってる。じゃあな、鳴海』
通信を切る。 現場の最前線を走るアナログ刑事と、後方支援(バックエンド)から動かないITエンジニア。決して顔を合わせることのない、奇妙で非公式な共犯関係(バディ)が、ここに完全に結ばれた。 葵はひしゃげたドアを蹴り開けて外に出ると、覆面バイクのエンジンを唸らせ、三河の深い夜の闇へと滑り出していった。